« 2012年4月 | トップページ | 2012年6月 »

新車心象風景:トヨタ・カローラ

Photo

 「原点回帰」という、ある種の謙虚さを持って開発すれば、果たしていいクルマはできるものだろうか?

 全長を50ミリも削ったり、1.3リッターを復活させたのはコンパクトカーの原点なんだろうし、水平基調のボディはいまどきのエモーショナル方向に対するベーシックセダンへの回帰かもしれない。また、フロントウインドウを大きくラウンドさせ、細いAピラーで視界を確保したのも実用車の原点と言えるだろうし。

 新しいカローラで語られる原点回帰や「ユニバーサルデザイン」、あるいは「安全・安心」という言葉が、そうした諸々の設計に表れているのは比較的分かりやすい。

 けれども、そうやって「あるべき姿」をつぎ込んだ新しいカローラが、なんでこんなに印象が薄くなってしまったのかは、結構重要な検証点だろう。

 さしあたり、そもそもカローラの原点って何だというころがまず引っかかる。

 文字通りの原点である初代のキャッチフレーズは”プラス100cc”、”隣のクルマが小さく”という有名なアレで、とにかくライバルより大きく立派にという方向だ。べつに揚げ足をとろうってわけじゃないけど、今回のダウンサイジングとは真逆の発想なんである。

 そんなこんなをあれこれ考えると、新型の原点は何となく80年代の80、90系あたりを想定してるんじゃないかと思えてくる。水平基調の端正なスタイルや、ファブリックを豪華方面に多用したインテリアなど、新型のイメージにかなり近いということで。

 けれども、それは言い方を変えると「新型は80、90系とどこが違うの?」とも言えたりする。もちろん、義務化を睨んだVDS、あるいはサイド+カーテンエアバッグの標準装備といった、現代なりの技術的進化は顕著だ。アイドリングストップによる燃費向上もまた同様に。

 ただ、そういう技術のアップデート以外の基本的なクルマのあり方としては、実はほとんど変化していないんじゃないかと感じる。それが、どうしようもない印象の薄さを招いているんじゃないのか?

 それは、もしかしたら単純にHVを設定すればよかったのかもしれないし、あるいはエンジンのダウンシジングでよかったのかもしれない。あるいは、究極的な軽量化や、超モダンなスタイリングでも。

 実際、先日のデザイナーインタビューでは「このクルマからトヨタが変わる」という発言があった。そこでどう変わるかはメーカーの考え方次第だけど、その変化が見えるようで実はよく見えないのが新型なんである。

 いや、思い返せば、カローラは近年でもそれなりに変化を経験している。バブル期の「大きく愛のような」カローラでは高級コンパクトカーへ変貌したし、その後の「ニュー・セチュリー・コンセプト」では欧州的パッケージングで合理化を推し進めた。

 新型は、大きく変わったと自称しながら、実のところその変化の具合や勢いは、それらかつての試行には遠く及ばない気がする。80、90系ほどの明快でまとまりがいいわけじゃないスタイリング、とくに先進的な設計でもないエンジン、グレードによって装備やクオリティに差を付けるという旧態依然な発想のインテリア。

 メインユーザーがリタイア世代で、実際内外装にはそういう味付けをしながら、イメージキャラクターは小栗旬という苦しい選択もそれを後押ししている。トヨタの代名詞でありながら、クラウンのような一貫性を打ち出せないのは一体どうしてなんだろう?

 TVや新聞で紹介されたように、新型の発表会では「東北発」が強調された。もちろん、この厳しい時代に国内生産をブチ上げるのは、トヨタほどの企業にしたって相当な決意が必要だったろう。今回の「トヨタの変化」とは、何て言うかその辺を込みの話に聞こえて仕方がない。

 ただ、そういう決意や勢いによる社長の言葉、あるいは現場の工場マンの熱い言葉と、商品としてのカローラの魅力は、当然だけれどまったくの別物なんである。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

新車心象風景:メルセデスベンツ・Bクラス

Photo

 何かこう、いかに自分は勝手な思い込みをしていたかということを、改めて認識させられるんである。

 たとえば、欧州車に比較的トンチンカンなクルマが少ないのは、各メーカーの歴史はもとより、それなりにたっぷっりとした時間をかけて開発することで、妙な部分は淘汰されるのではないか、というのもそのひとつかもしれない。

 サンドイッチ構造を捨てることでレイアウト上の制約が減ったAクラスは、BMWの1シリーズとガッツリ張り合うかのように、低くスポーティなハッチバックスタイルに舵を切った。

 同様に制約の減ったBクラスも似たような方向を向いたわけだけど、Aクラスの兄貴分としてひと回り大きいボディは、いまいちスポーティな雰囲気が足りない。じゃあ、そのボリューム感のあるボディをどうシャープに見せようかと考えたのが、たぶんサイドを走り回るキャラクターラインなのかと思う。

 ホンダ・フリードの悪夢を連想させるアンダーラインは、仮にルーフラインと相対する軌跡を描いているとしても、やっぱり思いつき感は拭えない。これだけでも十分残念な感じだけど、さらにAピラーから斜め下に向かうもう1本のラインがトドメを刺す。

 いわゆるイメージスケッチの段階はともかく、生産型へと作業を進めてゆく過程で、こうした妙な発想は整理されるんだろうな、と思っていたんである。そうやって、一発芸的な過ちは見事に回避されるんだろうと。

 たしかに、05年あたりからメルセデスデザインは迷走を始めたなあとは思ってはいた。彫りの深い唐突なサイドラインばかりに頼って、ボディ全体でやりたいことが見えにくくなっているような。けれども、現行のEやCで、ようやくほどよい着地点を見つけたものと思っていたんである。そのキャラクターラインの使い方を含めて。

 いや、最近の欧州実用車はアウディなど一部を除いてどうもピンと来ないというのはあった。ルノーはどれもボヤンとしてとらえどころがないし、大当たりした500の弊害か、フィアットは新しいパンダをはじめどれもこれも締まりがなく、ブラーヴォまでもが500化するって話だし。

 ただ、これらのメーカーのクルマが、クオリティの高低はともかく、一定のまとまり感を持っているのに対し、メルセデス・ベンツの場合はそこが相当に弱い。このBクラスに至っては破綻すらしている。ボディサイドの暴れ具合とリアの退屈さの対比などは、ちょっとスゴいものがある。

 1.6リッターターボへダウンサイジングし、リッター20キロを越えた燃費性能などは実に現代的で、ちょっと前までの欧州車では考えられないものだ。

 それはまるで日本車のような性能向上ぶりだけど、だからといって短絡的で未消化なスタイリングまで日本車を見習わなくてもいいのにと思う。まあ、ミニミニバンな日本車的パッケージングはいいとしても。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

雑誌記事:デザイナーインタビュー・トヨタカローラ

Photo

  久々のデザイナーズ・インタビューは、トヨタの新型カローラで。

 先週11日にお台場で行われた発表会は、同車を生産する宮城県のセントラル自動車・ラインオフ式のライブ中継という異色の企画。

 豊田社長、セントラル自動車社長以下、各販売会社社長、宮城県知事等々を招いての大イベントは、裾野の広い自動車産業で被災地東北を盛り上げるという趣旨からも面白い試みだったと思う。さらに、直接の開発者ではなく、生産ラインの代表者がカローラを語るという趣向もまた新鮮なものだった。東北の地からこのクルマを送り出すぞ、という声だ。

 なんだけど、各お偉方の挨拶やテープカット、現場マンの決意表明が延々と続くばかりか、式典の合間に東京で流されていた開発者インタビュー映像が先方の進行の都合でブツ切りになったり、これは発表会としてどうなんだ?という気持ちが。

Photo_2

 長いながい中継が終わって、これでもう終わり?と思ったら、そこから開発主査が檀上に出てきて話が始まり、さらに広報展開だとタレントの紹介だのイベントの説明が続く。おいおい、一体いつになったらクルマが見られるんだと痺れを切らして席を立ったのが、すでに開始2時間後だった。

 なんだろう? ハチロクをメインにした東京ショーのプレス・カンファレンスもそうだったけれど、どうも新しい社長さんのやることがズレているような気がする。いや、やっていることの本質は間違えてないんだけど、アプローチが幼いというか拙いというか。だって、発表会に行って販売会社社長の「売るぞーっ!」の大合唱を聞かされてもねえ・・・。

 まあ、結果的にデザイナーさんの話はしっかり聞けたので、下記サイトからお願いします。

(ニフティ自動車サイト)

http://carnifty2.cocolog-nifty.com/sugimoto/

| | コメント (6) | トラックバック (0)

新車心象風景:日産・シーマ

Photo

 おもしろいと思うのは、世の中的にシーマというのは、”あの”シーマだということなんである。

 クルマ好きにしてみれば、新しいシーマが現行フーガのストレッチ版であり、HVシステムまでもを流用していることは周知のところだ。逆に、もう少し差別化することはできなかったの?くらいな感じだろう。

 けれども、スバルの軽撤退が「360」を持ち出してニュースになったのと同様、世の中一般として、新型シーマは「シーマ現象」と直接結びつけるべきクルマとして取り上げられ、TVや新聞の経済コーナーを飾った。

 なんだか短絡的だよなあ、と一瞬思うわけだけど、果たしてそうなのかといま一度思い直したりするんである。

 つまり、新しいシーマが初代とあらゆる意味で違うんだという事情に、わりと簡単に納得しいる僕ら、あるいは日本車のあり方が実はおかしんじゃないかと。

 カローラⅡ兄弟、チェイサー・クレスタ、プログレ、スープラ、サニー、プリメーラ、セフィーロ、プレリュード、インテグラ、S-MX、ユーノス連合、ディアマンテ、FTO、MAX、等々。

 比較的最近のクルマだけでも、絶版、つまり消えていった名前はいくつでもあげることができる。もちろん、中にはサニーがティーダになったような”発展的解消”もあるけれど、それにしても数は多い。

 しかも、こういうのは過去の話じゃなくて、ベルタ、ブレイド、インスパイアみたいに、いま現在も続いている話だ。

 僕らクルマファンは、消えゆくクルマのそれぞれの事情をたいていは知っている。だから「当たり前だ」とか「仕方がない」なんて理由で納得や理解もする。けれども、それはある種の”麻痺”とも言えるんじゃないかと。

 もちろん、メーカーにとっては売れないものは残せないし、商品企画や戦略もある。それでも日本のメーカーが安易に車種を増やすことは間違いないし、その結果絶版になるクルマが多いのもおそらく事実だろう。

 それを経済上の新陳代謝と肯定するひともいるけれど、僕は日本車の発展にとってやっぱりマイナスになっていると思う。消えてゆくクルマを見て何も感じないような麻痺状態には、できることならなりたくない。

 TVや新聞が新しいシーマを「シーマ現象」に結びつけるのは、だからとても正常な感覚なのかもしれない。逆に、近年の日本車、自動車メディア、あるいは僕らクルマファンにこそ、ニュートラルな感覚が欠落しているのではないかという意味で。

 あ、新型がフーガそのものっていう残念な事実はまた別の話だけれど。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

« 2012年4月 | トップページ | 2012年6月 »